過去ログ [ 0006 ] |
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不眠の行者はエネルギーを使わないから不眠なのではない。エネルギーの正しい使い方をして、その使用がエネルギーの浪費とならないから、不眠なのである。
だから、労を惜しむのでなく、正しい使い方をこころがけるべきなのである。
そして、労を惜しむことは、正しい使い方ではない。正しい使い方は、むしろ逆である。労を惜しまないことである。
では、その他の正しい使い方とは何か・・・おそらくは、愛を基にした思い、言葉、行動をすることだと思っているのだが・・・
時間がない時ほど、ひとつひとつをていねいに。
ていねいさは、すべてに優先するからである。
なぜなら、それは、金を錬るからである。
“地域”でただひとりの治療家という気構えと責任を持つこと。
(補足)なお、地域とは地上の地域ではなく、“縁という時空の場”である。
「記憶の部屋」にいること、すなわち、過去に生きること。
小林秀雄が「死んだ人は立派だ」と言ったが、同じように過去もまた立派であり、完璧であるからだ。
過去は、わたしのすべてであり、エネルギーの源である。
愛のひとつの顔は、第三の眼である。
それは、見守る沈黙であり、暴力でない力であり、たったひとつを選ぶ自由である。
ラフカディオ・ハーンが島根の片田舎で見た盆踊りはこの世のものではない踊りと静寂であった。しかし終了後、少女たちが日常の人となった時には、それはこの世の動きと騒音であった。
・・・盆踊りは日常にならないのか・・・
そしてまた、わたしの盆踊りである、ヒーリングもまた日常にならないのか、人生全体がヒーリングとならないのか・・・
ヒーリングは人生を引き上げないのか。
朝、顔を洗い、シャワーを浴び、肉体という体をきれいにするように、感情体という体もまたきれいにすべきである・・・その洗い方は・・・
ひとつは、気の呼吸をすること。やわらかな気のシャワーを浴びること。
ひとつは、寝起きの時の不安を洗うこと、愛を取ること。
ひとつは、モノを育むこと。
そして、生じることをよく見ること。生じたことは、わたしの感情をきれいにするできごとだからである。
この世界全体が愛であり、この人生全体が愛である。
今日というわたしを、地の果てまで、時の果てまで、広げること。
携えるものは、わたしの愛である。
世界が照応する、人生が照応する、わたしの愛である。
1秒でもいい、本気に当たることである。
本(もと)の気に当たることである。
それは、歯を食いしばることではない。柔らかな呼吸、内なる呼吸から生じるものである。
そしてまた、いわゆる本気(ほんき)でなくてはならない。本(もと)の気は本気(ほんき)から生じるからである。
これが簡単そうで、おそろしく難しい!
感情の問題がからむからだ、本気に至る感情をつくりだすのは難しい。
・・・難しいが、ひたすら試みつづけるしかない・・・
からだ全体で怖れ、からだ全体で愛すること。
何をするにも、・・・日拝をする時も、本を読む時も、看板娘さんと対する時も、
気功治療をする時も、昼寝をする時も、自己治療をする時も、護符にエネルギーを注ぐ時も、
時空の呼吸をする時も、食べる時も、排泄する時も、からだに触れる時も、
・・・そして、いま、こう書いている時も・・・
あらゆる時に、からだ全体で生きること。
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